017のネタ帳

ポケモン二次創作ネタとか。

「選ばれた英雄」から「みんな」へ~劇場版ポケットモンスターみんなの物語感想

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※この記事は映画本編のネタバレがあります。

 

劇場版ポケットモンスター みんなの物語」見てきました。

結論から言うと大勝利でした。ピジョン的意味で。
(※筆者は赤バージョンからのピジョンファンです)

冒頭に飛んでいくピジョンの優雅な姿と尻が画面中央にでっかく映っただけでも大勝利なのに、それにも飽き足らず山火事消火活動でも、主人公たちのピンチにバケツに水くんで華麗に集団で現れた上、大きく顔も映るし、もうこれは主役の貫禄でしたね!
ピジョンとその他大勢が協力して街を救う話だった。
過去21作の映画尚中で最も長く大きくピジョンが映った映画になった。

事前にリスさんと共謀して脚本家に万札の束を渡しておいた甲斐があった。

と、冗談はさておき、
総評および本編感想いきます。

 

自分的ポケモン映画の二強は「ミュウツーの逆襲」「キミにきめた!」なんですが、さすがにこの二つには勝てなかった。
が、この二作はかなり特殊であり、特に「キミきめた!」はこれまでの20年を背負っていた上、視聴者にとってのポケモンは何かを問うというメタ的要素がかなり強かった為、単純に比較するのは無理があるでしょう。

今回の映画は、世界観的には「キミきめ」のその後(おそらく)なんでしょうが、それでもやめたげてよぉ! という感じは強い。
むしろ、「キミきめた!」で従来映画シリーズとは異なるパラレルワールドに突入したからこそできた本作の特異性に注目すべきでしょうね。

 

私は趣味でポケモンの二次創作小説を書いていて、アニメでは絶対に主人公になりえないようなモブ設定のトレーナー(あるいはトレーナーですらない人間)を主人公に話を書く事が多いです。そうして長年、これは二次だからできる事であり、公式はやらないし、取り上げてもくれないだろうなと思っていました。

が、今回の映画、サトシや伝説のポケモンは出てくるものの、「かなりそういうのに寄せて来たな」というのは大変強く感じました。

ずっと伝説のポケモン!ババーン!大暴れ!〇〇やめろ!という流れだったのに(キミきめは除く)よくこの方向性が許可されたな、と。この点は単純に驚きです。

ただ、これが20年の歳月が経つという事なのかもしれません。湯山監督から矢嶋監督への世代交代があった点は最も大きく働いたでしょう。従来ポケモンコンテンツは私よりずっと年上の大人たちによって製作されてきました。ところが、今のポケモンというのは私の同年代の人々も社会人となり関わっている。その構成メンバーには私のように青春をポケモンに捧げ、ポケモンの世界について空想して育った人材が数多く含まれているはずです。ポケモンの制作現場においてまさにそういった世代交代が進んでいる、というのは背景として考えられる点だと思います。

そしてポケモンGОの影響も無視できないでしょう。GОは中高年にヘビーユーザーが多いと聞きます。ポケモンはもはや子供だけのものではなくなり、幅広い年齢層に広がりました。そういった層の広がりが、画一的な映画のパターンからの脱却を求め、このような物語を作らせる土壌を形成したのかもしれません。

映画の冒頭からして、それは際立っていました。だっていきなりリサの通ってる高校のシーンから始まるんですよ? 部活動やってるんですよ? この世界には不思議な生き物、ポケットモンスターがいる…とかじゃなくて。一瞬、別の映画の予告編かと思ってしまったくらいです。

私はポケモントレーナーの旅立ちというのは、かなり地域差のある文化だと思っています。マサラタウンのように十歳と言えば旅立ち!という町から、旅立ち勢はそんなにいなくて学校に通うのが普通、みたいな町まで幅があると考えている。
それを公式で、映画でやっちゃったか、と。
いいぞもっとやれ。

しかもですよ。めざせポケモンマスター」今回はオープニングに流れない。これも大変重要な事でサトシが主役じゃないよ、という強いメッセージ性を感じます。

トレーナー業に縁のなかった女子高生リサも新鮮でしたが、カガチもいままでにいなかったパターンですね。姪がかわいくて仕方ないというキャラは娘を持つお父さんなんかにはぐっとくるんじゃないでしょうか。偏見ですが、男の人って自分をかっこよく見せようとするしね。彼ほど極端ではないにせよ、心当たりのある人もいるのでは。

トリトみたいにうまく話せない人、いるよね。そういう人を包摂してきたのがポケモンというの尊い。尊くないですか?

そしてヒスイ…まさかの婆さんがメインキャラだと…こう彼女からは中高年のめっちゃやり込んでるポケモンGОプレイヤーの貫禄を感じますね。ポケモンに対する反応が、ピーターラビットの時のマクレガー青年のそれで笑った。彼女がポケモンに好かれているのは本当にあまいかおり薬だけのせいなんでしょうか…たぶん違いますよね。

ラルゴは王道ですね。これぞ伝統的ヒロイン幼女という感じ。

あと今回のサトシですけど、おそらくカントーポケモンリーグに挑戦後、しばらく遊ぶかって事で、手持ちポケモンたちは休養がてらオーキド研究所に預け、ピカチュウと水入らずの旅行として風祭りにきた説を推しています。リザードンに関してはリザフィックバレー的なところに武者修行に出してる可能性もある。
あのかなり熟達したポケモントレーナーぶり、ピカチュウとの見事な連携はやっぱりリーグの一回くらいは経験してると思うんですよね。
そういえばホテルでリサとサトシに電撃を浴びせるシーンがありましたが、あれは二人の水入らずの旅行なのに女なんて連れ込みやがって!という制裁だと思ってます。その後なんだかんだで付き合ってイーブイゲットを助けてあげる本妻ピカ様はなんと慈悲深い御仁であらせられることか。

そしていつの間にかちゃんと顔見知りになっているサトシとロケット団(キミきめでは会話がない)。ピカチュウの事は狙ってはいるようですが、きのみジュースで資金作りを算段したり、トリトの研究成果を狙ってみたりと、昔のアニメシリーズよりは柔軟なイメージを受けました。この世界線でもソーナンスは加入の運命なのですな。ムサシの衣装が涼し気でエロい。


物語前半部は、みんなが相棒ポケモンを連れて行きたいと思ってるポケモン世界でうおーという感じ。DVDで一時停止とかスローしてモブポケモンの描写を追いたい系のやつ。ポポッコとか衝撃音に驚いてトレーナーに抱き付くデリバードとか愛おしかった。ぜひ設定資料集を出していただけませんかね?
1番道路と思敷きBGМのアレンジ曲にも感動。今年もサントラ買うかな。

そして、サトシとメインの五人、ロケット団、市長やゼラオラが絡みながら、事態は思わぬ方向へ転がっていく。ここの関わらせ方伏線の貼り方は非常に巧みでしたね。脚本とかどれくらい組み直したんだろう。

あとゼラオラを求めて森へ入っていく人々が去年のエンテイに続いてポケモンGОにしか見えなかった…。ラプラスを求めてお台場を集団移動する人でしょあれ。

今回の騒動は人災なんですよね。
(いつもそうな気もするが)

おいトリト、盗まれたとはいえ、危険物の取扱がなってないぞ!
(このあたりトリトが仲間内から評価されてなかったり、一人で抱え込んじゃったりするのも遠因なんだろうな…)

ともあれ拡散し始める有毒胞子、山火事も発生! 諸事情により灯台の明かりも消えてもう大変! ルギアも呼べないし一体どうなっちゃうの~!?
今回の事件、見た目としては正直地味めですが街としては洒落にならず、死活問題です。

問題、というのは一個の原因では起こらないんですね。
いくつかの成立要項があって全部満たすと起こってしまう。
そこは非常に現代的です。

単純に「悪を倒す」ではなく、「事態に対処する」というのはというのは震災以後の日本のテーマかもしれませんね。
そこには悪人を倒す、とは別のアプローチが求められる。
その解決には「みんな」の力がいる。


そして、事態を収拾しようと動き出す登場人物達。
ここで市長がかなりしっかりした長だった。市長の呼びかけのおかげで街にいた人みんなが「みんな」になりえたと思うし、ピジョンの活躍もあった! 市長は本当えらいと思う。ポケモン世界の地方自治体の長、かくあるべしである。市長、尊敬できる大人の見本みたいな人で、みんなで助け合っていくっていうのを打ち出した。
これはこの物語のテーマとしても大変大きい部分を担っていて、特別な誰かが「選ばれたの英雄」として何するではなく、「社会・共同体」として課題にどう向き合うかというところまでやったのはすごい事だ。

問題解決のアプローチとしてはある意味とても「シン・ゴジラ」的だったのかもしれない。
そうか、これはポケモン版「シン・ゴジラなのか。
ほら、一生懸命薬剤作って運んで、投入するの頑張ってたし…市長の貫禄は巨災対で指揮をとっていた矢口を思わせますね。
(筆者はシン・ゴジラ劇場で4回観てます)

そしてカガチの嘘、というのはある種の祈りのように私には見えました。こんな自分になりたい、という祈り。今回、ウソッキーさんが押しかけ女房をして手持ちに加わりますが、私はあの描写を「嘘つきでなりたい自分になれていない自分を受け入れる」と読みました。なぜカガチがウソッキーに関心を示しながらもなかなかアプローチに応えなかったかと言えば、それはウソッキーが偽る自分の象徴だからなんですね。理想の自分になるためにはまず現状を受け入れなくてはいけない。変わる、というのはそこから始まるのです。

そしてカガチさんは、トリトとヒトデマンを利用してレースを演じ始めたあたりから本物になりかけてはいる。予行を経、自身たるウソッキーを受け入れた事で彼はいよいよ動き出します。

彼の姿はさながらかつて英雄的な活躍をするトレーナーにあこがれつつ、現実では仕事に追われてままならない、私達のようでもあります。しかしそんな私達であっても誰に影響を与え、勇気を与える事がある。トリトはラッキーに後押しをされつつ、カガチさんからの影響をかなり受けているように思われました。

で、ヒスイさんなんですけど、過去のアレの映像、相当エグかったですよね…最近のポケモン、去年に引き続いてそのへんの容赦なくなってきたと感じる。これも世代交代とか震災以後の変化なんだろうか。私としては下手に隠すよりずっと評価するけど、やっぱりこれ、来年はもっとぶっとばすから覚悟しろって事なんじゃ…

自分も小説とかでキャラを殺してますけど、公式がやると重みが違いますね…時間差でショックがきてる。ポケモンといる事は、一緒に隣で走るのはきっと幸せな事。けれどそれゆえに喪失のダメージは計り知れない。笑顔の裏にはいくつもの涙がある。今回のポケモンが一緒にいれば頑張れるよ」っていうテーマとヒスイのような人物の存在している事は表裏一体です。しかし我々はそれでもその世界を肯定する。やばい、胃がキリキリしてきた。
そりゃあそんな思い二度としたくないよね。たぶんヒスイさんは今回で会ったポケモン達と新たな関係性を築いていくと思うんだけど、あの中で最初に去る者がいたらそれはヒスイさんであってほしいと私は思うし、それは穏やかな別れであってほしいと願うよ。そうじゃなきゃ許さない。

エモかった点も話しますね。
個人的にはリサが聖火を高台に戻しにいくのがすごく古代の儀式みがあってよかった。図らずも聖火ランナーの形式をとった事、台に聖火を灯した事で現れる伝説のポケモン、それはさながら神事を遂行する聖職の巫女のようであり、ルギア爆誕のフルーラのオマージュのようなものも感じさせた。

災害に立ち向う、人とポケモンが一致団結する中、ルギアは人とポケモンの絆を確認し祝福し、象徴する存在として降臨する。それを呼び出す役目を担ったのが新たなにポケモンと縁を結んだ女性、というの最高じゃありませんか? ポケモン民俗妄想クラスタとしては最高にエモかったです。きっとこの地に初めてルギアが現れた時も似たような事があったのかもしれません。彼女は古代の儀式を再現した神女であるのかもしれない。

走ると決めて髪を結ぶシーン、なんかすごくがんばリーリエを思わせました。髪を結ぶ行為は女が肚をキメるという儀式なのでしょうか。動きによって覚悟が伝わってくる大変良いシーンで表現としても勉強になりました。厚底のサンダルを脱ぎ捨ててほぼ裸足になる、というのもなんだか古代を思わせるんですよね。

ルギアが描かれるの最後のちょっとだけというのも前回のホウオウみがあって、変にでしゃばらなくてよいですね。主体はその土地でいきるモブ達(人もポケモンも)であり、伝説は添えるだけでいいのです。

しかもこの聖火ラン、民俗学考察的に、映画の見せ場的に最高にエモでありつつ、バッチリ新作ゲームの宣伝にもなっているという…。サトシとピカチュウの存在ががレッツゴーピカチュウの暗喩なら、リサとイーブイはレッツゴーイーブイのメタファー。シナリオが見事にイヤミなく販促とリンクするのはずるいですね。これは本当にずるい。おお、ルギアの祝福あれ。ピカチュウよりいっぱい売れてしまえ。

もうリサちゃん、イーブイを手放さないですよね。絶対弟くんには渡さないと思う。弟くんも弟くんでこういう展開を狙ってたのでは疑惑あるし。

サトシもサトシで民俗学的にはマレビト的役割を果たしているとみる事が可能かもしれません。

そしてメタな視点で見るならば「キミきめ」のリザードンがいない事はやはり「飛行能力、戦闘力共に問題解決力が強すぎる」に尽きる思います。リザードンの存在はサトシを「選ばれた英雄」としてしまい、今回のテーマとはリンクしません。今回のサトシは新人を導く往年のポケモンファンの概念的側面を背負っており、下手に助ければその役割を果たせなくなってしまう。そのポジションとしてのサトシがあの場でリザードンを持っているとまずいのです。

彼は「ポケモンパワー」という神の言葉を運んできます。そうしてそれを聞いた人々が福音を体現し、最後にそれを共同体の長たる市長が「この街はゼラオラと一緒にやっていきますよ、私たちはポケモンと生きていくんだよ」という宣言を行う。

エモいですね。
民俗学的興奮があります。
「社会・共同体」としてのポケモン世界の脈動を感じました。

 また幻のポケモンと仲良くなるという伝統的な役割を演じたラルゴは今回ひと騒動起こる原因の一つを作ってしまいますが、あの行動力ややさしさというのはまさに市長の教育の賜物、とういう感じがします。そしてちぐはぐで適切ではなかったとはいえ行動がひいてはゼラオラとの和解するきっかけを作っていくというのは新しい世代が現状を変えていくといった今のポケモン映画を象徴しているようにも読めました。

メタでうがった見方ではありますが、ラルゴと市長の関係というのは、矢嶋監督と湯山監督の関係でもあるようにも見えます。市長はラルゴを優しく諭しながらもその方向性を支持します。そしてゼラオラは、ポケモン開発史的にはポケモンの世界に新しく加わった新参者です。そうすると市長の「ゼラオラとやっていく」宣言は、「新しい世代と新しいポケモン映画の魅せ方と共にやっていく」宣言のようにも見えてきます。往年のファンはそういう見方をしてみても面白いかもしれませんね。


(まとめ)

とにかく「みんなの物語」でした。
「サトシとピカチュウや伝説のポケモンを出す」という縛りはあるにしろ、あの世界に生きている人を主人公にしたらこうなるみたいな、ポケモン世界に生きる人とポケモンとの共存の話だった。

あの世界の人がポケモンと一緒に色んな困難を乗り越えて歴史を作ってきたのだという話で、今回の出来事はその一幕です。そういう部分を公式で映像化してくれた貴重な一本になったと思います。
この手の方向性は退屈という人もいそうだけど、ポケモン映画史の中にあの世界で生きる「旅のトレーナーではない人々」にスポットを当てた作品が出たっていうのは価値のある事。
このタイミングでやってくれてよかったという想いはあります。
21作目でこういうの見せてくれるとは思わなかった。

20作目で「旅するポケモントレーナーの世界」を描き、
21作目で「ポケモンの世界で生きる人々とポケモン」を描き、
そして22作目は「アレ」でしょ。
すごい攻めてる。めっちゃ攻めてるよ。

22作目は一世一代の大博打になるだろうけど、ぜひよい評価を勝ち取って貰いたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

それはそれとしてイラストコンテストでうっかり受賞しちゃった、二次創作仲間でもあるイーブイ描き

「東京都  わたあめさん」

がエンディングでスクリーンデビューしてる絵面はめっちゃおもしろかったです。

 

かつて私のイラストコンテストでリーフィアの尻

(ソース:http://pijyon.schoolbus.jp/irakon/04/35.html

を描いていたわたあめさん。それを皮切りにイーブイの尻を描くようになったと私は記憶しているのですが、やがてイーブイの尻に定評のあるわたあめさんとなり、気が付けば世代交代の進む公式が「イーブイの尻」を売り込んでいる。

だいたいあなたのせいだと私は勝手に思っています。

受賞おめでとうございます!!!

今後ともわたあめさんがイーブイの尻界をけん引していく事を期待しながら記事を終わりにしたいと思います。